旅は人生なり
旅は人生なり
2007.08.15 1945年夏 私の8月15日
当時、私は貝塚市立東国民学校の5年生。
戦火は益々激しくなり、日に幾度も「空襲警報」が鳴るし、警報
が鳴ると、慌てて集団下校し、帰る途中で「警報」が「解除」にな
ると再び学校に引き返すと云う日々にあって、およそ勉強など
手に付かない状態にあった。
当時、何処の家庭の電燈にも黒い布を被せ、決して明かりが外
に漏れないようにさせられ、薄暗い中で貧しい食事をしていた。
6月のある日、私の家があった貝塚にも大空襲に襲われる。
薄暗い部屋で食事をしていた時、いきなり「ザザー、ザザー」と
天地を揺るがす振動と轟音が響くのを聞く。家族の皆は、慌て
て防空頭巾を被り、庭に掘られた防空壕に入るが、間もなく防
空壕の中に、付近で発生したのか火災の煙が濛々と入り込む
その時「皆逃げろ!」と云う大人の大声で、私たちは防空壕を
出て家並みから外れた水田の畦道に逃げた。
もう怖くて、怖くて歯が「ガチガチ」鳴りっぱなし、しかし、その
恐怖の真っ只中、南方の空には、これまで見た事のない、
真っ暗な夜空が真っ赤な炎に染まって渦巻く天空の動きを見
る。天空を異常な夜空に染めたのは、直ぐ隣の和歌山市内が
空襲で爆撃を受け、燃え上がっていたからで、「ザザー、ザザ
ー」と云う音と天地を揺るがす振動は、我が家の裏の田んぼ
に焼夷弾が落ち、稲穂が燃えて火の粉が、まるで花火の様
に舞っていた。遠い大昔に見たその風景は、今も目に焼きつ
いている。
そんな不安な日々が続く中、あの8月15日がやって来た。
その日「玉音放送」があると云うので、ご近所の方々もラジオ
を聴きに来ており、私たち姉妹は「よそ行き」の洋服に着替え
させられ、正座して「玉音放送」の開始を待つ。天皇陛下の声
を初めて聞くと云うので、緊張していたが、ラジオの音波状態
が悪かったのか、「ガァー・ガァー」と雑音が入って「お言葉」
が聞き取れず、まるで宇宙人が喋っているようで、内容は理解
できなかった。その時「日本は戦争に負けた」とは、誰も口にし
ていない。
私たち姉妹は、初めて聞く「玉音放送」に緊張していたが、
何も判らないことで拍子抜けし、「よそ行き」を脱ぎ捨て、この夏
最後となった海水浴に出掛けた。出掛けた二色浜の海岸は、
沢山の子供達で賑わっていて、その中にいた友達から「日本が
負けた]と「終戦を」知らされる。「日本は負けたんやで!」
「アメリカ兵が上陸して来て八つ裂きにされるかも知れへんで」
「うそ!」 「そんな事あらへんわ!」などと反論しつつ、妹と駆
け足で家に帰ったら、母はラジオにしがみつき泣いていて、
「日本が戦争に負けた事」を改めて知った。
その夜の食事は何を食べたのか記憶にない。が電燈に被せら
れた布は取り外され、空襲に怯える心配もなく、明るい電気の
下で食事が出来る事を嬉しく思いつつも、「これからの日本は
どうなるんやろうか?」と新たな不安も湧き出てくる。
私にとっての戦後は永く感じられた。
10年程も続いた「食糧難」に「物資不足と貧困」に喘いだ青春
時代を、否応無く過ごさなければならなかったのである。
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